北海道におけるテンサイ生産と病害虫防除のあゆみ
農薬ガイドNo.100/J(2001.10.31) - 発行 アリスタ ライフサイエンス株式会社 筆者:菅原 寿一
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1.はじめに

 明治4年(1871)に北海道で初めて試験的に栽培が始められたテンサイは、当初は極めて低収・低糖であったが、その後、長い時間を経た後、種々の栽培技術改善により、ようやく近年に至り先進国並に近づく収量・糖分が得られるようになり、現在は北海道畑作農業には欠くことが出来ない作物となっている。しかし、最近、順調に推移してきたテンサイ生産が安定性を欠き、大きく減収する年が度々見られ、今後の北海道畑作農業およびテンサイ製糖事業に悪影響を与えるものと懸念されている。
 長い年月の努力にもかかわらず、何故テンサイの減収が起こったのか?これまでのテンサイ生産の過程と生産に及ぼした病害虫の影響について振り返り、今後の病害虫防除を中心としたテンサイ生産の在り方について検討した。

2.明治時代のテンサイ生産と病害虫の発生

 北海道ではじめてテンサイが栽培されたのは明治4年(1871)、札幌官園で試作されたのが最初である。また、はじめて工業化したのは当時の明治政府による国家近代化を目指した産業育成の一つとして製糖産業が計画され、明治13年(1880)、現在の伊達市に官営の工場が設立された。工場建設直後の明治14年のテンサイ作付面積は122ha、ha当り収量19.74t、歩留0.87%、栽培農家戸数は335戸と記録されている。当時のテンサイ買上価格は、三段階の含糖率に応じて定められていたが、低収のため収益は極めて低かった。その後、官営工場は明治20年(1887)に民営化され、明治22年(1889)には現在の札幌市に民営工場が新たに設立された。
 その後、国や道の手厚い保護政策を受けていたにもかかわらず、収量はha当り10t台と低く栽培農家の耕作意欲は満たされず、作付のピ-クは明治23年(1890)両工場合わせて作付面積約800ha、収量ha当り15.03tに止まった。製糖歩留は明治時代を通じて2~6%と極めて低く収益低下を招き、加えて道内金融機関の破綻などにより両工場の経営は悪化した。当時の台湾領有によるわが国の甘蔗糖への砂糖産業の移行、労力を要する割には原料価格が安かったため栽培意欲が低かったこと、当時の粗放的農業経営にテンサイを導入できなかったこと、搬出輸送に高い経費を要したこと、テンサイ栽培技術の未習得等々多くの要因により明治29年(1896)伊達、明治34年(1901)札幌と相次いで操業中止となった。この操業中止の要因としては、上記のほかに、病害虫防除技術の欠如が挙げられている。当時の品種はフランスのヴィルモーラン、ドイツのクラインワンツレーベン種が使われており、病害特に褐斑病に弱く、収穫期にはほとんど葉身がない状態であったといわれており褐斑病の発生が低収・低糖の大きな要因であったことが想像される。
 このようにわが国に導入されたテンサイ糖業は失敗に終わり、明治30年(1897)から農家によるテンサイ栽培は停止した。

3.大正時代から昭和初期(昭和10年頃)までのテンサイ生産と病害虫の発生

 大正3年(1914)に第一次世界大戦が起こり、戦場がテンサイ糖産地のヨーロッパとなり、世界的砂糖供給不足を招き、糖価は暴騰し、国内において再びテンサイ糖業に対する関心が高まって来て、大正9年(1920)現在の帯広市に、大正10年現在の清水町にそれぞれ工場が建設された。両工場は明治時代の失敗は狭い農家経営面積と原料輸送コストの高い等の立地条件が主要因ととらえ、その克服のためテンサイの栽培適地を十勝と推測し、できるだけ工場周辺でテンサイ栽培が可能な場所を選定し工場を設置し、かつ専用鉄道まで作って原料輸送改善に努めた。これらの努力の結果、テンサイ生産は順調に伸び、大正11年(1922)には6,000ha近くまで達したが、収量・糖分は相変わらず低く、多労力・生産費の高いテンサイを農家経営に大幅に導入することができず、十勝のみでは原料確保は難しく、北見・上川まで作付地域は広がった。第一次世界大戦後に国内外の糖価は暴落し、操業を始めたばかりの両工場の経営に打撃を与えた。しかし、この間、糖価の暴騰によってテンサイが再認識させられたことおよび作物としてのテンサイの有利性(①深根性作物であり地力を増進させる。②耐冷性がある。③土壌改善・施肥技術改善等により一般農業技術改善に役立つ。④有畜農業に重要な作物など。)が次第に理解されてきたことにより、北海道庁は行政および試験研究の充実を図り作付指導奨励・助成事業を推進した。
 昭和に入り、テンサイ生産は次第に軌道に乗り、昭和8年(1933)には作付面積約10,000haに達したが、収量はha当り18.51tと相変わらず低かったが、歩留は12.30%と次第に向上してきた。また、昭和6・7・9・10年と連続して冷害にあい、水稲・豆類等が大幅に減収したのに比べ、テンサイは被害が少なく、耐冷性が強く安定した特性が改めて認識された。これらのことから、十勝・網走の主産地のほか、全道的に普及され、昭和11年には作付面積は18,900haに達した。
 当時の品種は明治に引き続きヴィルモーラン、クラインワンツレーベンが使用されていたが、種子は毎年外国から輸入され、北海道に適応した品種の国内自給が望まれていた。昭和5年(1930)、北海道農事試験場はDippe産のクラインワンツレーベン種から選抜し、品種「本育48号」を育成した。しかし、「本育48号」は褐斑病抵抗性が劣り、抵抗性改善を図るため、ヴィルモーラン、クラインワンツレーベンを交配し選抜を重ね、昭和9年(1934)に「本育192号」が育成された。「本育192号」は収量・糖量共に優る品種で昭和35年(1960)頃に到るまで長期間栽培された。「本育192号」が登場してから褐斑病の発生はやや少なくなったが、再び増加の傾向を見せて来る。
 この期間、主要なテンサイ栽培技術として認識されたのが、酸性矯正・化学肥料の施用・病害虫防除の徹底等であった。酸矯効果はライムケーキ等の施用で明らかにされ、施肥効果は化学肥料施用による増収で明らかにされた。病害虫防除については、明治時代は有効な薬剤もなく、病害虫の発生は猖獗を極めたが、大正11年(1922)に登場した褐斑病に有効な石灰ボルドー、ヨトウガに有効な砒酸鉛の防除効果が高かったことから防除に対する認識が高まった。なお、石灰ボルドーは銅剤の登場する昭和30年(1955)頃まで、また砒酸鉛は戦後、DDT・BHCが登場する昭和22年(1947)頃までの長い間、テンサイ防除薬剤として使用された。

年次
作付面積
(ha)
ha当り収量
(t)
総収量
(t)
歩留
(%)
産糖量
(t)
明治18(1885)~明治22(1889)
407
13.38
5,460
5.64
314
明治23(1890)~明治27(1894)
553
15.15
8,913
3.37
253
大正 9(1920)~大正13(1924)
5,760
11.60
76,926
8.14
6,959
大正14(1925)~昭和4(1929)
8,699
19.30
168,852
11.26
19,061
昭和5(1930)~昭和9(1934)
9,501
20.36
193,489
13.23
25,695
昭和10(1935)~昭和14(1939)
16,732
17.85
293,070
12.33
36,126
昭和15(1940)~昭和19(1944)
15,406
12.29
186,339
11.57
22,328
昭和20(1945)~昭和24(1949)
13,756
7.62
95,314
9.91
9,464
昭和25(1950)~昭和29(1954)
14,655
18.55
266,481
11.85
31,848
昭和30(1955)~昭和34(1959)
27,925
24.83
705,014
12.91
91,420
昭和35(1960)~昭和39(1964)
43,559
24.21
1,054,492
13.67
144,301
昭和40(1965)~昭和44(1969)
55,805
33.22
1,855,128
14.11
261,688
昭和45(1970)~昭和49(1974)
54,940
43.85
2,422,990
13.98
336,593
昭和50(1975)~昭和54(1979)
51,207
48.42
2,497,167
13.73
343,792
昭和55(1980)~昭和59(1984)
71,191
51.90
3,685,885
14.69
542,263
昭和60(1985)
72,382
54.17
3,920,838
14.65
571,243

明治18年から昭和59年までの5カ年平均統計
資料:北海道てん菜協会

▲第1表 北海道におけるテンサイおよびテンサイ糖の生産推移(1)

▲正常なテンサイ、移植3倍体品種 茎葉を除去された根部が製糖原料となる

▲褐斑病の激発

▲ヨトウガ(俗称ヨトウムシ)中齢幼虫、体長30~40㎜程度

▲ヨトウムシの著しい食害

▲直播畑における苗立枯病の被害

▲直播畑における根くびれ症状(苗立枯病菌による)

4.昭和初期から中期(昭和40年頃)までのテンサイ生産と病害虫の発生

 面積の増加により、昭和10年(1935)に士別市・磯分内にそれぞれ新工場が建設された。栽培技術の向上等によりテンサイ生産およびテンサイ糖業は順調に推移するかに見えたが、昭和12年(1937)日華事変、昭和16年(1941)太平洋戦争により、戦時中から戦後にかけて、反収・歩留は低下した。作付面積はそれ程減少しなかったが、特に反収の低下は著しくha当り6t台となった。この原因は、食糧増産体制のためテンサイ買上価格の割安感による耕作意欲の減退および肥料・農薬等農業資材の不足とされ、特にテンサイ生産に割り当てられた肥料・農薬が他作物に転用されテンサイ生産に大きな影響を与えた。これらのため、各工場の操業度は悪化し、昭和19年(1944)両社は合理化を図るため合併し、北海道興農工業株式会社が誕生した。また、清水工場が昭和19年(1944)に製糖をやめ、道内工場は帯広・士別・磯分内の三工場となり、昭和22年(1947)に日本甜菜製糖株式会社と社名を改めた。
 戦後、わが国は砂糖供給地であった台湾・サイパン等南洋諸島を失い、サトウキビ主産地の沖縄をアメリカの占領下におかれ、砂糖は深刻な供給不足となり、北海道のテンサイ生産が一躍注目されることになった。
 このような状況の下で、北海道庁はテンサイ耕作振興を図るため、昭和24年(1949)から26年(1951)にかけて褐斑病防除薬剤の購入費に対して助成を行なった。この補助金は当時の他事業補助金にくらべかなり高かったといわれ、テンサイ生産に有効であったと思われる。なお、国も昭和26年に多額の薬剤代助成を行なっている。
 政府は本格的にテンサイ糖業の生産振興に取り組むことになり、昭和28年(1953)に「テンサイ生産振興臨時措置法」が施行された。その中で原料テンサイの最低生産者価格が告示され、テンサイ再生産が保証されることになり、農家としては安心してテンサイ耕作ができるようになったこと、その後続いた冷害に対しテンサイは全く影響を受けなかったこと、テンサイに特効的肥効を示すチリ硝石が昭和26年(1951)に輸入再開されたこと、当時、効果的防除薬剤もなく褐斑病の発生に悩んでいたが、アメリカGreat Western社育成GW系統の褐斑病抵抗性品種「導入2号」が収量・糖分共に当時栽培されていた「本育48号」、「本育192号」より優ったので急速に普及したこと等々の要因が加わって、テンサイ栽培意欲は一気に高まり、年々作付面積は増加し、昭和35年(1960)には40,000haを超えた。反収・歩留も年々向上し昭和30年後半には収量ha当り25t、歩留14%程度となり、産糖量は年々増加の一途をたどった。なお、この「導入2号」は欧州系倍数性品種が登場する昭和40年(1965)頃まで作付は続き、ピーク時の作付率は昭和33年(1958)に全道の90%に達した。
 このような増産情勢から、精糖各社は北海道のテンサイ糖業への進出を図り、昭和32年(1957)北見製糖所(芝浦精糖株式会社)、33年斜里製糖工場(ホクレン農業協同組合連合会)、34年伊達市に道南製糖所(台糖株式会社)、美幌製糖所(日本甜菜製糖株式会社)、37年(1962)清水製糖工場(ホクレン)、本別製糖所(大日本製糖株式会社)と各工場が新たに設立された。ここに到り、北海道のテンサイ製糖工場は、5者(4社およびホクレン)9工場となった。
 一方、政府は国内甘味資源確保のため、さとうきびとともにテンサイの生産拡大を積極的に取り組む姿勢を明らかにし、昭和31年(1956)から東北をはじめ、関東・四国・九州など多くの地域でテンサイ導入を図るためのテンサイ試作研究が開始され、その後、昭和34年(1959)秋田・大館に木材化学株式会社、九州大分に新光甜菜製糖株式会社、昭和35年岡山に横浜精糖株式会社、昭和36年には青森・三沢にフジ製糖株式会社がそれぞれ工場を設立した。しかし、各工場とも原料テンサイを最後まで十分確保出来ず、操業悪化の改善見通しが得られず赤字が増大したので、昭和36年新光、38年木材化学、40年横浜、42年フジの各工場は閉鎖に追い込まれてしまった。この原料不足の要因としては、水稲・野菜等に比べてテンサイは有利な作物ではなかったこと、輪作体系の未確立、有畜経営との結びつき欠如、極めて零細な農業経営等の経営的要因の他に、明治時代の北海道テンサイ糖業が撤退した要因の一つと同様に、病害虫の多発が挙げられる。特に暖地では高温多湿の梅雨のため病害虫が多発し、褐斑病抵抗性品種「導入2号」でさえしばしば激甚の被害を受けた。なお、暖地では褐斑病・ヨトウガの他、特に苗立枯病・根腐病・葉腐病・ハスモンヨトウ・シロオビノメイガ・サツマイモネコブセンチュウ等の被害が顕著とされた。北東北地方では褐斑病に対しては銅剤・スズ剤である程度防除可能であったが、葉腐病に対してはなすすべがなかった。このように、病害虫の発生は府県におけるテンサイ生産の終焉に大きく影響を与えたと思われる。以降、わが国のテンサイ生産は再び北海道におい���のみ展開されることになる。
 昭和22年(1947)に塩素系殺虫剤のDDTが登場し従来の砒酸鉛に代わって害虫防除に使用されるようになり、防除効果向上に大きく貢献した。昭和30年(1955)にはエンドリンが実用化し更に防除効果を高めた。しかし、これら塩素系殺虫剤は殺虫力が強く、残効が長く、適用害虫が広く、価格も比較的安価で優れた薬剤であったが、カーソン女史の「沈黙の春」に示された通り、動物の脂肪に蓄積され生態系への悪影響が指摘され使用が禁止され、昭和40年(1965)頃より使用されなくなった。

品種
褐斑病指数
導入2号
1.43
本育192号
2.43
本育401号
3.01
(注)4菌株接種の平均 褐斑病指数は0~10

▲第2表 導入2号の褐斑病抵抗性(1959,細川ら)

品種名
年次
全道における作付率(%)
本育192号
昭和29(1954)
50
導入2号
昭和33(1958)
90
ポリラーベ
昭和41(1966)
42
カーベポリ
昭和43(1968)
41
ソロラーベ
昭和54(1979)
23
モノヒル
昭和56(1981)
55
カーベメガモノ
昭和59(1984)
27
ハイラーベ
昭和60(1985)
27
モノエース
昭和63(1988)
41
モノホマレ
平成2(1990)
27
モノエース・S
平成3(1991)
39
スターヒル
平成5(1993)
28
メロディー
平成6(1994)
29
ハミング
平成9(1997)
29
ユーデン
平成11(1999)
20
アーベント
平成12(2000)
27
資料:北海道てん菜協会

▲第3表 北海道における主要品種の変遷

▲テンサイモグリハナバエの食害

▲テンサイモグリハナバエ幼虫、体長約8㎜

▲カメノコハムシの食害

▲カメノコハムシ成虫、体長約8㎜(幼虫も加害する)

▲育苗中の斑点細菌病

▲定植後の斑点細菌病

5.昭和中期から後期(昭和60年頃)までのテンサイ生産と病害虫の発生

 昭和38年(1963)、粗糖の外貨割当制度が終わり輸入が自由化されると精糖企業各社はシェア拡大を図り工場の増設を始めたが、やがて糖価は急落し経営は悪化してきた。昭和39年、国内産糖の保護などを盛り込んだ「甘味資源特別措置法」が公布され、更に昭和40年「砂糖の価格安定等に関する法律」(糖安法)が制定されたものの、市況は回復せず経営悪化は更に進み、精製糖業の不況は道内進出の精糖各社のテンサイ工場経営にも大きな影響を与えた。加えて、最低生産者価格の低水準引上げによるテンサイ耕作者の耕作意欲減退に伴う原料生産の伸び悩みから、芝浦精糖・台糖・大日本製糖の3社は、国・道の行政指導もありテンサイ部門を分離し3工場を統合し昭和43年(1968)北海道糖業株式会社となった。また、日甜は昭和44年磯分内工場を休止し、芽室に大型工場を昭和45年新設、昭和52年(1977)には帯広製糖所を閉鎖し、この時点で現在の3者(2社およびホクレン)8工場の体制となった。
 生育期間を延長させて増収を図る移植栽培が日甜により開発され昭和37年(1962)より普及されるようになった。当時作付面積が伸び悩み原料確保に苦慮していた糖業は増産方法としての移植栽培を急速に普及させ、昭和40年(1965)には作付面積全体の20%、同45年75%、同50年95%に達した。移植栽培は直播栽培に比べて生育延長により増収効果が獲得出来るほかに、風害・凍霜害の防止、株立本数の確保、湿害・酸性障害の軽減および多肥栽培・短期輪作化が可能になったこと等の効果が得られる。また、病害虫に対しても直播栽培に比べて有利な点が多く、キタネコブセンチュウ・テンサイトビハムシ・根腐病・黒根病・そう根病等に対しては、直播に比べて移植の生育ステージが早いため被害を回避または軽減することが出来、ネキリムシ類・テンサイトビハムシ・テンサイモグリハナバエ・西部萎黄病・根腐病等に対しては、苗床に薬剤を処理することにより防除効果を得ることが出来る。
 移植栽培における苗立枯病防除は、初めは焼土により行なっていたが効果・作業性が劣り、後にオーソサイドを育苗土に混合する方法が取られたが、防除効果は低く生育抑制も生じ対策に苦慮していたが、新しく登場したDAPA剤は特に藻菌類のPythium、Aphanomyces に卓効を示し、昭和39年(1964)頃より育苗土全体に混合して使用されるようになった。DAPA剤は苗立枯病防除に高い効果を示したのみならず、苗の生育促進効果も見られ移植栽培の普及に役立った。その後昭和40年Rhizoctonia に有効なPCNB剤も併用されることとなる。DAPAは昭和50年(1975)まで使用されるが昭和51年登録とり止めとなり、昭和51年よりヒドロキシイソキサゾール・PCNB剤の覆土消毒が始まり、昭和57年(1982)にはPCNBに代わってトリクロホスメチルとなり、昭和63年(1988)より現在のトリクロホスメチル・ヒドロキシイソキサゾール粉剤(混合剤)に代わった。なお、本法はかつてのDAPA・PCNB剤が育苗土全体に混合される処理に対し覆土部分のみに処理される方法であるため定植後の黒根病・根腐病に対する予防的効果の差異が生じ、平成6(1994)・7・11・12年などのような黒根病・根腐病を含む根腐症状テンサイ多発に影響したのではないかと懸念される。  褐斑病抵抗性品種「導入2号」の栽培は昭和40年(1965)で終わり、代わって「ポリラーベ」・「カーベエルタ」・「カーベポリ」・「AJーポリ」など欧州系倍数性品種が導入され、昭和46年(1971)から「ソロラーベ」、昭和48年「モノヒル」昭和49年「ノバヒル」と今までの多胚種子から単胚種子へと代わった。当時の欧州系品種は全て褐斑病罹病性であるが、このように抵抗性品種から罹病性品種への転換が行なわれたのは褐斑病防除技術の向上、特に褐斑病に有効な有機スズ剤が昭和38年(1963)に登場したことによる。しかし、気象的に多発年であった昭和42年ではスズ剤散布を行なっても十分に褐斑病を抑えることが出来ず、以降、褐斑病との戦いが長い間展開されることになる。
 昭和43年(1968)にチオファネート剤が登場し、褐斑病に対し卓効を示し従来のスズ剤に比べて、1 ~2回の散布回数削減の可能性が明らかにされ、スズ剤に代わり急速に普及した。しかし、褐斑病は昭和48年(1973)・49年・50年と多発し、特に49年・50年の発生は激甚でその原因はチオファネート耐性菌によるものであった。また、1970年代初めの食糧危機による国際農産物価格の高騰、昭和48年のオイルショックなどによる食糧情勢から国は自給率向上を図り小麦・大豆等を奨励したため相対的にテンサイの優位性は失われ、加えて褐斑病多発による収益性低下は生産者の耕作意欲減退をもたらし、作付面積は昭和49年には一転して10年前の4万ha台にまで激減した。昭和50年も褐斑病多発のため、収量・歩留は低く作付面積の減少とともに糖業の原料確保に支障を生じ製糖コストは上昇、一方生産農家に対しても収益性の低下・輪作維持への悪影響等が懸念され、道は生産振興を図り多額の予算を投入した。その結果、原料価格アップの好影響も重なって面積は着実に回復し、収量・歩留も褐斑病防除薬剤を昭和51年よりチオファネートからスズへと早急に切り替えた効果もあって上昇した。スズ剤は平成2年(1990)まで使用され、それ以降は使用禁止となる。
 昭和54年(1979)よりカスガマイシン剤が登場し、スズとの混用またはカスガマイシン・銅が使用されるようになった。カスガマイシンはイネいもち病の防除薬剤であり、いもち病菌に耐性菌を作り易いことが知られていたので、褐斑病に対して耐性菌を作らないように、連用・単用の回避、散布回数を少なくする等と注意し使用されていたが、昭和59年(1984)・60年に耐性菌の発生が築尾らによって報告された。耐性菌の分布は全道的には少なく、千歳など数ヵ所に限られており、その圃場ではスズまたは銅との混用のためかカスガマイシン散布による劣効化は見られなかった。しかし、“弱耐性菌”は全道に広く分布しており増加傾向に注意するよう喚起されたが、その後、カスガマイシン劣効化の現象は明らかには見られていない。また、耐性菌が増加しているかどうかについても明らかではない。
 昭和53年(1978)の夏は記録的な猛暑となり、褐斑病・葉腐病が激発し、一部では心腐病も発生した。特に褐斑病の発生は著しく、スズ剤を散布したにもかかわらず発病を十分抑えることの出来ない圃場が多く見られ、スズ剤に耐性を持つ菌株が見られたが(第4表 )、チオファネート耐性菌のような明瞭な薬剤劣効化現象は見られなかった。しかし、同年ギリシャ、昭和58年(1983)イタリー、59年ユーゴスラビア、平成7年(1995)アメリカ等においてスズ剤耐性菌出現の報告がある。

検定菌株数
同左割合
菌糸伸長抑制
の程度*
スズ剤を含まない
寒天上の菌糸の伸び
スズ剤10ppmを含む
寒天上の菌糸の伸び
1,051
55.2%
11.5cm
1.1cm
478
25.1%
12.0cm
6.3cm
376
19.7%
12.1cm
12.9cm
計 1,905
100
-
-
-

(注)
1.北糖管内37ヶ所における調査
2. *:スズ10ppm含有WA寒天培養6日目における菌糸の伸びを良く抑えているものを「良」とし、劣るものを「劣」とし、その中間を「中」と区分した。

▲第4表 褐斑病のスズ剤に対する耐性(1978)

処理区別
被害程度指数
池田(8/11)
伊達(8/8)
オルトラン水和剤 1,500倍
0.7
21.7
DEP乳剤 1,500倍
3.5
73.8
MBCP乳剤 1,000倍
7.0
25.0
無処理
66.8
94.0

(注)散布:池田 7/11・7/21、伊達 6/27・7/7

▲第5表 オルトランのヨトウガに対する防除効果(1977)

処理区別
被害程度指数
テンサイトビハムシ
テンサイモグリハナバエ
5/26
6/1
7/16
オルトラン 50g/6l/6冊
4.0
20.0
9.0
オルトラン 100g/6l/6冊
2.5
21.0
6.5
無処理
27.5
97.0
16.8

▲第6表 オルトラン定植前潅注によるテンサイトビハムシおよび
テンサイモグリハナバエに対する防除効果(1977)

 DDTなど塩素系殺虫剤が使用されなくなり、代わってMBCP、ベンゾエピンが用いられ、昭和48年(1973)にはオルトランがテンサイモグリハナバエ・ヨトウガに登録認可となり49年より使用されるようになり、DEP剤もヨトウガに使われるようになった。
 昭和32年(1957)・40年・41年にテンサイモグリハナバエが全道的に発生が多かったが、昭和50年(1975)代より移植栽培ではオルトランの定植前苗床灌注によりテンサイモグリハナバエに対してテンサイトビハムシと同時防除が可能となり、それ以降、テンサイモグリハナバエの移植栽培での被害は少ない。直播栽培では、西部萎黄病防除に有効なイミダクロプリドのペレット種子被覆材料への混合処理がテンサイトビハムシおよびテンサイモグリハナバエ防除に有効である。
 昭和50年(1975)テンサイトビハムシが網走管内の白滝村・湧別町等の乾燥土壌地帯の直播圃場で多発した。激発した圃場では廃耕に到る場合も見られ、移植栽培に切り替える処も出た。昨今の直播テンサイにおけるテンサイトビハムシの発生は以前にくらべて少ないが、移植への転換の他に、越冬地となるササ自生地の減少、食草として好むアカザ科・タデ科雑草の減少なども原因の一つとして考えられる。
 昭和45年(1970)にそう根病が胆振・網走・十勝等に発生し、特に伊達市周辺の発生は著しく、廃耕し野菜に切り替える圃場も見られた。収量・糖分を大幅に低下させ、ヨーロッパでは最も恐れられている重要病害の一つであるそう根病は、Polymyxa betae が媒介するBNYVVによるウイルス病であるが、高pHを好むP. betae は長く土壌中に生存するので一旦汚染されると絶滅させることは難しく、当時、発生が益々拡大するのではないかと懸念された。しかし、石灰資材の畑への施用中止およびヨーロッパにくらべ降雨量が多いこと、かつ近年道内各地に見られる酸性雨等により土壌pHは年々低下の傾向が見られ(第7表)、最近のそう根病発生はやや減少の傾向であるが、全道の約20%の圃場にBNYVVが確認されており、発病条件が揃えば発病する可能性があり、抵抗性品種を活用し防除に努める必要がある。

圃場数
圃場における処理
土壌 pH
1972
1987
3
そう根病発生後に硫黄粉散布
7.83
5.83
12
無処理
7.51
6.19

(注)
1.調査圃場:昭和43年(1968)から47年にかけてそう根病が発生した圃場。
2. 土壌pH:1972年と1987年、圃場より土壌を採取し測定。

▲第7表 そう根病畑における土壌pHの推移(1988)

 昭和48年(1973)にマキバメクラガメが網走管内に多発したが、その後の多発は見られない。
 米の減反政策が昭和44年(1969)よりとられ、テンサイへの転作が行なわれるようになり、ピーク時の昭和57年(1982)には、テンサイへの転作面積は9,061haに達した。水田転換畑での収量は普通畑並かそれ以上が可能であるが、糖分は一般的に低い。排水改善が十分でないと、収量・糖分は低下し湿害を生じ易く、黒根病・心腐病の発生が多くなる。

▲テンサイトビハムシの食害(直播)

▲テンサイトビハムシ成虫、体長約2㎜

▲移植苗床における苗立枯病による発芽不良

▲移植苗床におけるAphanomycesによる苗立枯病

▲移植苗床における苗枯病

▲Ramulariaにおける斑点病の多発(褐斑病と混同されやすい)

▲ウリハムシモドキの食害

▲ウリハムシモドキ成虫、体長約7㎜

6.昭和後期(昭和61年頃)から現在までのテンサイ生産と病害虫の発生

 当初、明治時代には糖分を加味した取引が行なわれたが、大正時代以降重量取引となった。しかし、生産が増加してきた昭和40年代になると関係者の間で糖分取引実施の声が高まり、昭和44年(1969)より調査会が発足し、長い間調査・検討された結果、昭和61年(1986)より糖分取引が実施されることになった。
 第8表の通り、糖分取引開始後の昭和61年(1986)・62年の収量はha当り約54t、糖分は17%と極めて良好であった。この良好な生産は株立本数の増加・施肥量の減少など高糖分を目指した栽培法がいちはやく普及された(第9表)ことによるが、高糖分をもたらした気象条件と褐斑病の発生が少なかったことを見逃すことは出来ない。昭和63年(1988)には「モノエース」、「スターヒル」、「サンヒル」等高糖性品種が作付率70%程度と一挙に普及し、その年の高糖17.3%に寄与したが、この年も61年・62年同様良好な天候と褐斑病の発生の少なかったことが好成績に影響した。

年次
作付面積
(ha)
ha当り収量
(t)
総収量
(t)
根中糖分
(%)
歩留
(%)
産糖量
(t)
うち原料糖
(t)
昭和61(1986)
72,132
53.54
3,861,848
17.2
16.32
630,143
 
昭和62(1987)
71,377
53.62
3,827,243
16.9
16.36
626,115
 
昭和63(1988)
71,829
53.58
3,848,511
17.3
16.85
648,623
 
平成1(1989)
71,913
50.95
3,663,925
17.0
16.77
614,271
82,110
平成2(1990)
71,952
55.50
3,993,571
16.4
16.12
643,607
116,640
平成3(1991)
71,900
57.23
4,114,784
17.6
17.47
718,821
188,223
平成4(1992)
70,560
50.75
3,580,605
17.6
17.49
626,175
113,050
平成5(1993)
70,082
48.34
3,387,655
18.0
17.78
602,359
111,820
平成6(1994)
69,752
55.23
3,852,569
15.6
15.14
583,318
82,791
平成7(1995)
70,016
54.46
3,813,213
17.3
17.07
650,741
159,375
平成8(1996)
69,664
47.30
3,295,192
17.6
17.39
573,144
90,212
平成9(1997)
68,259
53.98
3,684,564
17.6
17.47
643,547
167,277
平成10(1998)
70,000
59.49
4,164,421
16.6
16.32
679,829
226,432
平成11(1999)
69,999
54.10
3,787,098
16.6
16.29
616,883
134,429
平成12(2000)
69,109
53.15
3,673,429
15.7
15.50
569,200
123,651

昭和61年(1986)から平成12年(2000)まで
資料:北海道てん菜協会

▲第8表 テンサイおよびテンサイ糖の生産推移(2)

年次
昭55
60
61
62
63
平2
5
7
9
11
株立本数(本/10a)
6333
6661
6910
6871
6914
6970
6899
6899
6828
6847
施肥量(kg/10a)N
20.1
18.6
17.3
17.0
16.7
16.6
16.8
17.1
17.4
17.6
P2O5
33.9
32.4
30.9
31.2
30.6
30.9
31.1
31.1
32.1
32.4
K2O
22.4
19.6
18.4
17.6
16.8
16.5
16.1
15.9
16.1
16.0

資料:北海道てん菜協会

▲第9表 株立本数・施肥量の推移

 このように糖分取引により、昭和50年代にくらべ収量・歩留が向上、特に歩留は約3%程度も大幅に上昇した結果、産糖量は増大し製糖コストは低下した。しかし、昭和55年(1980)頃よりテンサイ糖は供給過剰の傾向となり、昭和60年(1985)以来、各作物の計画的生産を図るため農業団体による作物作付指標面積が設定されるようになった。糖分取引以降の産糖量は昭和50年後半の50万t台に比べ10万t程度増加し安定的に60万t台と多くなった。また、異性化糖の生産増大と加糖調製品の輸入増大等による砂糖の消費減少のためテンサイ糖の供給過剰は恒常的なものとなり、平成元年(1989)原料糖制度が始まった。しかし、この制度は糖業にとっては、原料糖買入価格が白糖より低く、かつその後原料糖が増加傾向となり、経営的には厳しいものとなった。一方、生産農家にとっても、原料価格は糖分取引後伸び悩み基準糖度帯の引き下げも昭和52年(1977)にあり、必ずしも糖分取引移行により収益が改善されたとは云えなかった。特に、平成6・10・11年のような低糖分、あるいは平成12年のような低収・低糖に遭遇すると収益性は低下し作付意欲の減退を招く事態となる。糖分取引以降、安定的に推移して来たと思われたテンサイ生産も以上のような不良条件にあうと、昔から耐冷性に優れた安定作物とされたテンサイは一転し「不安定作物」になってしまう。この不安定をもたらす要因としては、平成6年は旱魃と褐斑病・ひび割れテンサイ、平成11年は湿害と根腐症状テンサイ、平成12年は湿害・夏期高温と褐斑病・葉腐病・根腐症状テンサイ等の発生であり、いずれの年も天候不順とそれに伴う生理的障害および��害の多発であった。病害の影響としては特に盛夏期の高温多湿による褐斑病と初夏から秋期にかけての根腐症状テンサイの発生が最も重要であり、テンサイ生産を左右する。なお、「根腐症状テンサイ」とは根腐病・黒根病・ひび割れテンサイ・心腐病・生理的腐敗テンサイ等全ての根部の根腐症状を示すテンサイの総称であり、北海道のテンサイ品種試験における根部の調査基準に用いられている。
 糖分取引移行後の昭和63年(1988)より高糖性品種が大幅に導入されたが、北海道農業試験場とオランダ・バンデルハーベ社との共同育種で育成された品種「モノホマレ」も同時に導入され、普及のピークの平成2年(1990)には27%に達した。「モノホマレ」の糖分は他の高糖性品種より劣ったが耐湿性が最も優り黒根病に強く、平成6年頃まで栽培された。皮肉なことに栽培を止めた平成7年以降、道内各地で黒根病の多発が目立つようになる。
 その後、平成4年(1992)頃より糖量型の「メロディー」が普及し始め、「ハミング」、「サラ」等多くの糖量型が相次いで普及され、これら糖量型と従来の糖分型に加えて、更に糖分型と糖量型の中間的タイプ、あるいは「モノホマレ」より多収の根重型品種など多くの種類の品種が登場し、平成10年(1998)には14種類の品種が栽培された。なお、糖量型品種が増加したのは、現行の原料価格体系では糖量が多いと収益が向上し、高い糖量を得るには、収量がやや低い糖分型品種より、収量がやや高い糖量型品種の方が有利であることに起因する。また、糖量型品種の導入により、劣悪な条件下ではない年度では、高い産糖量が得られた。
 平成2年(1990)・3年にそう根病抵抗性品種「エマ」、「リゾール」、「リゾホート」が登場したが作付割合は低かった。その後、収量性が改善されたそう根病抵抗性品種「シュベルト」(平成10年)、「モリーノ」(平成11年)、「きたさやか」(平成13年)が登場する。
 褐斑病抵抗性品種「導入2号」の作付は昭和40年で終わり、その後欧州系多収型の罹病性品種が栽培されるようになるが、昭和57年(1982)に北海道農業試験場育成の国産品種「モノヒカリ」が認定され、58年以降道南地方を中心に普及された。ピーク時の昭和62年には全道の10%に作付され、糖分取引直後の高歩留に貢献した。「モノヒカリ」は「導入2号」よりやや弱いが褐斑病抵抗性があり、黒根病・そう根病にもやや抵抗性があり、かつ、非糖分が少なく製糖性が優れ品質は極めて良好等優れた特性を備えていたが、抽苔耐性が弱いこと、特に発芽不良が不評を招き作付は減少した。以降、北海道のテンサイは平成13年褐斑病抵抗性品種「スタウト」が現れるまで罹病性品種のみの栽培となる。
 褐斑病防除薬剤のスズ剤が平成2年(1990)使用禁止となり、平成3年よりマンゼブ剤が使用されるようになる。新殺菌剤のDMI剤ピリフェノックスが平成元年、次いで平成5年ジフェノコナゾール、平成7年シプロコナゾール、平成10年(1998)にはホクガードが登場し、現在、DMI剤ではジフェノコナゾール、ホクガードが主に使用されている。なお、ホクガードは褐斑病防除効果が高いのみならず、増収効果あるいは糖分向上効果が得られた試験例が道内やイタリーで見られている。
 葉腐病の防除には初めはTPTA、TPN等が使用されていたが、防除効果は低く効果的防除薬剤の出現が望まれていた。昭和57年(1982)に防除効果の高いメプロニルが登場し、更に防除効果の良好なペンシクロンが61年、62年にはフルトラニル、63年にトルクロホスメチルが現れる。
 根腐病防除薬剤は初めPCNB粉剤が使用されたが、昭和50年(1975)からTPNまたはPCNB水和剤の200l/10aの株元散布による防除が行なわれるようになり、次いで59年(1984)にはメプロニル剤、62年にはペンシクロン・トルクロホスメチル等が登場した。平成元年(1989)には、移植栽培においてペンシクロンの定植前苗床灌注により根腐病防除を行なう方法が開発された。この方法は、従来の本圃株元散布の散布水量が200l/10aと多く、散布作業効率が低く普及が限られていたのにくらべ、極めて省力的に防除が可能となり、移植栽培で広く普及しており、現在はトリクロホスメチルも使われている。
 そう根病菌に汚染されている育苗土を消毒するには、殺線虫剤のD-Dが用いられてきたが、平成2年(1990)新たに登場したダゾメット剤はD-D以上の防除効果を示し作業性も優るため、育苗土消毒の他にテンサイ育苗用ビニールハウスの床表面土壌の消毒にも用いられた。
 殺菌剤に劣らず、当時の合成化学の進歩は目覚ましく、多くの殺虫剤が主にヨトウガを対象として開発され、昭和60年(1985)には有機リン・合成ピレスロイドのジメトエート・フェンバレレート、次いでエトフェンプロックス・フルシトリネート等多くの合成ピレスロイド剤が多数現れ、平成元年(1989)にはIGRのクロルフルアズロンが登場し、現在テンサイ害虫に適用されている薬剤は約30種類に及んでいる。それぞれの薬剤の使用方法・特長・価格を十分把握し薬剤を選択、使用することが必要である。
 萎黄病は昭和30年代から見られ、昭和40年代前半および昭和50年(1975)には発生が多く、当時、増加が懸念されたが、その後の増加は見られなかった。しかし、平成元年(1989)頃より石狩・後志などに発生が目立ち、平成3年(1991)、伊達市およびその周辺で突然多発し、特に伊達市で激発し著しい被害を及ぼした。しかし、他の地区には多発は見られず、十勝管内の一部の畑でごく僅か見られたが、網走管内にはほとんど見られず、多発は伊達市周辺に限定された。なお、当時発生の萎黄病の病原は西部萎黄病(Beet western yellow virus)であることが確認されている。伊達市およびその周辺では定植前イミダクロプリド苗床灌注により防除を行なって発生を抑え、現在はほとんど発生は見られない。他の地区ではイミダクロプリドによる防除は行なわれなかったが、その後増加は見られず、現在はほとんど問題とされていない。
 珍しい症状の病害としては、平成11・12年に見られた心腐病、平成6年に多かったひび割れテンサイがあるが、Erwinia菌に起因すると思われる心腐病は夏期が高温・多湿の時に多いが、高温でなくとも湿害時にしばしば軽い症状株は見られる。Rhizoctonia solani によると推測されるひび割れテンサイは高温旱魃時に見られるが、R.solani による根腐病は発生時の土壌水分によって、典型的な地際部からの感染部位でない場合が見られる。
 平成3年には、うどんこ病の発生が倶知安町などで見られた。本病はヨーロッパではポピュラーな重要病害の一つであるが道内では珍しく、温室では発生が見られたこともあるが屋外では見られていなかった。当時の発生はごく僅かで被害はほとんどなかった。なお、うどんこ病に対しては硫黄剤・DMI剤が効果的とされている。ナミハダニの発生が旱魃時に多く見られ、昭和52年(1977)・59年、最近では平成6年に発生が多かった。被害を抑えるには、葉の黄化が目立つ前の8月上旬頃に薬剤を予防的に散布する必要があるので、気象予報に注意し発生を予測する必要がある。ゴミムシ類により移植播種直後のペレット種子が食害された事例が平成7年(1995)喜茂別で見られた。しかし、その後発生は見られていない。

▲株元散布による根腐病防除(畦上散布機により根際部のみに散布)

▲西部萎黄病の全面発生

▲西部萎黄病特有の脈間黄化葉テンサイ

▲倶知安町に見られたうどんこ病

▲ナミハダニによる黄化

▲ゴミムシ類により食害されたペレット種子

▲ゴミムシ類成虫、体長約10~14㎜

▲黄化しているそう根病罹病性品種と健全なそう根病抵抗性品種

7.テンサイ生産・病害虫防除の現状と今後の対策

(1)現状

 テンサイの作付面積は近年、7万ha前後で推移してきたが、農家戸数の減少・労働力不足・最近の低糖分による収益性低下等により今後の面積確保は厳しい状況にある。収量は昭和61年から平成12年の平均でha当り53.41t、買入糖分は同じく17.0%である。最近の品種の動向は、ごく最近までは種類が多かったが、現在はかなり集約され、現在の主要品種は糖量型の「アーベント」、「めぐみ」、「のぞみ」、「スコーネ」等である。現在の糖量型主体の品種構成が続くと今後とも収量はやや上向き、糖分は下向きに推移するものと思われる。道内畑作物の作付状況は第10表の通りで、昭和60年以降、麦類の増加、豆類・バレイショの減少が見られるが、テンサイはほとんど変わらず、昭和60年頃よりテンサイの輪作年次はほぼ安定しているが、場所によって小麦の連作、テンサイ・バレイショの交互作など短期輪作が行なわれている。最近、施肥量の漸増が見られているが(第9表)、これも品種と同じく増肥による高糖量が収益向上になるためである。
 テンサイ生産量増加を図るため導入された移植栽培は他作物にくらべて作業労働時間が長く、全自動移植機など高性能機械導入等によって労働時間は減少傾向にはあるものの機械化の限界もあり減少程度は極めて低い。そのため、収益性は改善されず、テンサイ作付が不安定となる要因の一つになっている。このような低い収益性と労働力の減少・農業者の老齢化・後継者不足等により結果的にテンサイ栽培農家戸数は大幅に減少しつつあり、規模の拡大が進行しているが、大規模作付が限界に達する農家が増加すると作付面積は停滞して来る。
 病害虫の被害は近年著しく、特に高温年の平成12年(2000)は同じ高温年の昭和53年(1978)に類似し、褐斑病・葉腐病の被害が著しかった。また、平成7年から黒根病を主体とする根腐症状テンサイの発生が多く、特に平成10・11・12年の低糖分をもたらした。  なお、根腐症状テンサイにはRhizoctonia菌による根腐病と、Aphanomyces 菌による黒根病が混在して主要病原となっているが、両病害とも高温条件下で発生が多いが、黒根病は多湿になるとさらに発病が助長される。最近は多湿気味の気象条件等のためからか、黒根病の発生はテンサイ栽培史上、かつてない程に多いと思われる。また、黒根病に対する薬剤防除は現在行なわれていない。最大の主要病害である褐斑病に対しては、ジマンダイセン・カスガマイシン・ホクガード等DMI剤等が耐性菌発生防止のため組合わされて使用されている。葉腐病の発生は気象によって大きく異なり、これまでの長い歴史の中でも多発した年度は昭和36・38・49・50・53年などと限られ、他の年度ではほとんど被害は見られなかったが、最近は、被害は少ないが発生が見られた平成6・8・10年、やや多発した平成7・11年、かなり多発した平成12年などと、発生は目立って多くなっている。そう根病の発生も平成12年にはやや多かったが、その他の年度では小康状態を保っている。

区分
作付面積(ha)
作付比率(%)
昭和60年
平成12年
昭和60年
平成12年
麦類
98,400
106,639
23.1
25.8
豆類
80,696
57,500
28.9
13.9
テンサイ
72,500
69,200
17.0
16.7
バレイショ
75,900
59,100
17.8
14.3
合計
327,496
292,439
-
-
普通耕地畑
426,400
413,700
100
100

資料:農林水産省「作物統計」
(注)作付比率=作付面積/普通耕地畑(%)

▲第10表 北海道畑作物の作付状況

(2)今後の対策

 テンサイ生産の収益性改善を図るには、現行移植栽培における労働時間の短縮・重労働改善を図る必要がある。また、最近の直播栽培は栽培技術が改善されてきており(たとえば、単胚ペレット種子による無間引栽培、播種機性能向上、殺虫殺菌剤混入ペレット種子による発芽向上・病害虫防除、作条混和・狭畦栽培による増収、除草剤の効果向上など)、省力栽培が可能なので、直播の導入を積極的に行なうべきである。そのためには、生育期間延長の効果を発揮できるような早生型品種の開発および更なる病害虫防除効果が得られるペレット種子加工技術の向上が期待される。
 しかし、現時点では、一般的に直播栽培では移植栽培に比べて病害虫に対して抵抗力は劣るので注意する必要がある。なお、直播用として求められる早生型品種は根重型ないし糖量型となる可能性があり、これを移植に用いるとさらに産糖量は増加するので使用に亜当たっては注意する必要がある。
 輪作は近年、安定的に保たれているが、今後さらに作付大規模化が進むと輪作体系は崩れる可能性があり、地力向上のためにも緑肥作物を導入し現状以上の短期輪作化防止に努める必要がある。
 産糖量増加が必ずしも現在のテンサイ産業に好ましいとはいえない状況から、今後の品種は現在の糖量型よりはやや糖分型が望ましいと思われるが、これに先立って糖分重視の原料価格体系の検討が施肥量低減のためにも必要である。なお、今後、糖分が高いのみならず、非糖分の少ない製糖性の優れた高品質型品種・テンサイが望まれる。また、湿害に伴う黒根病による収益性低下が大きいので、耐湿性・耐病性を備えた品種が強く要望される。
 明治以来発生が多く、テンサイ生産を左右してきた褐斑病に対し、紆余曲折を経て現在の防除方法に到りほぼ満足すべき防除技術が確立されたと思われていたが、平成12年、各地で褐斑病の多発を見た。多発の要因は夏期の記録的猛暑等気象条件であるが、平成12年と同じく夏期猛暑で多発した昭和53年はスズ剤の防除効果が不十分でスズ剤に耐性を持つ菌株の発生が認められたが、平成12年も昭和53年類似の薬剤散布効果が不十分な圃場が多く観察され、多くの圃場でDMIに対する感受性の低下した菌株の存在が認められた(2001工藤ら)。褐斑病は既にチオファネート・スズ・カスガマイシン等薬剤に対する耐性菌が見られており、褐斑病菌は薬剤耐性菌を作り易いと考えられ、DMI剤に対しても耐性菌発生の可能性があり、今後、新しい化学構造と作用機作を持った褐斑病防除薬剤の開発が切望される。平成13年に認定された褐斑病抵抗性品種「スタウト」は「モノヒカリ」より抵抗性は強く「導入2号」並で、慣行罹病性品種に比べて薬剤散布回数を1~2回程度減らすことが可能である(2001有田ら)。今後、安定的生産を得るための防除対策並びに薬剤経費節減のため、抵抗性品種の活用が必要である。
 葉腐病は通常年では発生が少ないためほとんど専用薬剤による防除が行なわれないので、平成12年のように多発すると散布時期を逸して被害が著しくなる。つねづね天候予報に注意し、初期病斑の観察などの発生予察を行ない、防除の必要性・散布時期について判断する必要がある。 
 生産性に大きく影響する根腐症状テンサイのうち、主要病害である黒根病については、現在、北海道立十勝農業試験場で防除対策について検討されており、その成果が期待されている。根腐病に対しては、移植栽培の場合、定植前薬剤苗床灌注の実施を徹底する必要がある。
そう根病は近年増加の傾向は見られないが、潜在的にウイルスに汚染されている圃場が多いので、最近登場してきた「きたさやか」、「モリーノ」等収量を改善したタイプの抵抗性品種を活用すべきで、特に、そう根病が圃場のごく一部に発生する場合は、生産性の劣る従来の抵抗性品種に比べ減収しないので作付が奨められる。しかし、これら新しいタイプの抵抗性品種は糖分が低いので更に性能改善を期待したい。
 重要病害の発生には当然警戒しなければならないが、通常年では発生の少ない病害虫の突発的発生、(たとえば昭和41年のテンサイモグリハナバエ、48年のマキバメクラガメ、平成3年の西部萎黄病など)に注意する必要がある。また、現在わが国では発生は見られていないが、海外では発生・被害が多い病害虫(たとえばシストセンチュウなど)にも注意が必要である。なお、最近話題となっている地球温暖化は、諸々のデータから推測すると着実に進行する可能性が高いと思われるので、将来は温暖化に伴う病害虫の多発について警戒する必要があろう。
 わが国のテンサイ生産費コストを高くしている要因の一つに肥料・農薬等農業資材が海外に比べて使用量が多いことが挙げられる。欧米では殺虫殺菌剤のみならず除草剤も日本の1/5~1/10の散布水量で少量散布を行なっており、コスト低減となっている。北海道でも昭和50年代初めに少量散布試験が行なわれ、オルトラン3~10l/10a等が道指導参考になったが、残念ながら未登録に終わった。しかし、最近道内で再び試験が行なわれており、今後の実用化が期待される。また、オルトラン散布で良好な防除効果を示した、究極の少量散布である無人ヘリ散布はさらに省力的であり請負防除など今後の新しい防除体制での普及を期待したい。

▲根腐症状テンサイの全面発生(湿害と併発する場合が多い)

▲Rhizoctoniaによる根腐病

▲Rhizoctoniaによると推測されるひび割れテンサイ

▲Aphanomycesによる黒根病

▲Erwiniaによると推測される心腐病(軽度発生の場合は冠部にくぼみを生じる)

▲最近多く見られる病徴の根腐症状テンサイ

▲葉腐病

▲葉腐病の初期病斑

▲無人ヘリによる薬剤散布

▲最近多くなっている大型スプレーヤ

散布装置
散布量(l/10a)
発病度
防除価
慣行ブーム
25
33.9
62.2
スプレーヤ
50
23.2
74.1
慣行ブーム
25
37.6
58.0
スプレーヤ
50
25.3
71.7
慣行ブーム
100
35.7
60.1
スプレーヤ
     
無散布
-
89.6
-

(注)薬剤は保護剤とDMI剤との組み合わせ

▲第11表 褐斑病に対する薬剤少量散布の防除効果
(1999、道立十勝農業試験場)

区分
希釈倍数(散布水量)
食害程度
散布4日後
散布10日後
散布18日後
オルトラン水和剤
(無人ヘリ散布区)
16倍
(16l/ha)
2.9
2.5
5.8
オルトラン水和剤
(地上散布区)
1,000倍
(1,000l/ha)
5.4
10.4
8.8
無処理区
-
13.8
26.3
35.4

(注)散布 6/26

▲第12表 無人ヘリ散布によるオルトランのヨトウガに対する防除効果
(2000、北海道病害虫防除所)

8.おわりに

 砂糖消費低迷に伴う輸入粗糖減少等により糖価安定制度の運用が難しくなり、平成12年10月、長く続いた糖安法から「砂糖の価格調整に関する法律」に変わり、施行されることになった。その中で、最低生産者価格はテンサイの再生産を確保できるように定めるとされたが、本法律に先立って平成11年7月に制定された「食糧・農業・農村基本法」の中では食糧自給率向上および市場原理重視の理念が明示されており、今後の原料価格の上昇は期待できず生産農家の収益向上はかなり難しい状況にある。一方、異性化糖や新人工甘味料の出現とその需要増加・安価な海外の加糖調製品輸入増加およびわが国特有の現象の低甘味嗜好等により砂糖需要は大幅に減少し、糖価は低迷・原料糖は増加し、テンサイ糖企業の経営は悪化している。この砂糖需要を妨げている人工甘味料・加糖調製品輸入・低甘味嗜好は今後更に増える可能性があり、砂糖需要の回復は期待できない。このような厳しい情勢から北海道テンサイ糖業は製糖コスト削減を図るとともに需要動向に応じた生産を図る必要があるとされ、工場の在り方につても論じられるようになってきた。
 テンサイは北海道畑作農業の基幹的輪作作物として不可欠であり、今後も栽培を継続しなければならない作物であるが、現在、生産されるテンサイ糖の内外価格差は約2倍強もあり、如何にコストを下げるかが、大きな命題となっている。コスト低減に向けて多くの分野で懸命に努力されているが、病害虫防除の観点からいえば、収益性に大きく影響する褐斑病・根腐症状テンサイに対し、徹底した対策を講じる必要があり、更に一層のコスト低減に向けて、耐病性を備えた高品質品種の開発・防除効果が高く安価な新農薬の開発・高性能散布機械の開発・効率的防除技術の開発と普及等について、関係者が一丸となり総力を挙げて取組む必要があると考える。

(元 北海道てん菜協会)

参考文献

甜菜の知識(簑島眞一郎)
甜菜(細川定治)
北海道の甜菜生産と糖業に関する「覚書」(斎藤高宏)
てん菜及びさとうきびの価格等をめぐる事情(農林水産省)
北海道病害虫防除提要(北海道植物防疫協会)
てん菜研究会報(甘味資源振興会)
てん菜試験成績(北海道糖業株式会社)
Compendium of Beet Diseases and Insects (The American Phytopathological Society)

 

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