オンシツツヤコバチの仲間たち(1)

梶田 泰司

- アリスタ ライフサイエンス農薬ガイドNo.83/B (1997.4.1) -

 オンシツツヤコバチはオンシツコナジラミがわが国に侵入してからまもなく1975年に農林水産省中国農薬試験場においてイギリスから初めて輸入された。その子孫は九州大学農学部附属生物的防除研究施設で飼育されていたが、飼育は昨年(1996年)中止された。
 そして、その目的があたかも実用化にあったかのように、株式会社アリスタ ライフサイエンスからオンシツツヤコバチがエンストリップという商品名でその前年(1995年)に発売された。この機械に、オンシツツヤコバチにまつわる若干の知見をいつもと少し違った角度から紹介させて頂きたい。

オンシツコナジラミ成虫
 
オンシツツヤコバチ雌成虫
 

1.1910年代初めのイギリス

 ヨーロッパを旅行された方はお気づきと思うが、人間が熱帯植物の魅力にとりつかれ、また夏でも寒いヨーロッパに暖かい地方の植物を栽培しようとして建てた古い温室が彼の地にはいくつも残っている。オランダのライデン大学植物園では、普通の屋根の家の中で大きな植物を栽培する、多分hot houseとでもいうような建物がある。また、イギリスでは、重いガラスを支えるために驚くほど鉄材を多用したドーム型の温室をいくつも見ることができる。ロンドンの南隣りのサリー州には古くからそうした大きな温室があり、上流階級に属する人達が花や野菜の栽培を楽しんでいた。
 オンシツコナジラミがイギリスで害虫として広く認められたのは1910年代のことで、その頃は熱帯の恐らく、ブラジルから侵入したのではないかといわれていた。しかし、オンシツコナジラミを新種として1856年に記載したWest woodによると、そのコナジラミはメキシコから輸入された植物に付着していたものであり、同年にメキシコからも記録されている。いずれにしても、当時は中南米からランなどの珍しい植物を持ち込んで、楽しんでいた。そのため、1914年にサリー州の温室でオンシツコナジラミの寄生蜂が見つかったことは関係者にとっては大ニュースであった。不思議なことに、詳しく調べようとしたところ、すでに寄生蜂はおろか、オンシツコナジラミも温室から消えていた。不思議なことは二度あるもので、1915年にも寄生蜂が多発した。その時には、寄生蜂は希望者に配布されたが、第一次世界大戦のため、その後の配布は行なわれなかった。3回目の不思議は1921年に起こった。いずれの発生も標本がないが、初めの2回はオンシツツヤコバチではなく、同じ仲間のEncarsia anaron(=E.partenopea)ではないかと推察されている。3回目はオンシツツヤコバチの可能性を否定できない。

イギリスのトマトの温室
 

2.オンシツツヤコバチの発見

 1920年代のアメリカ合衆国もイギリスと同じようにトマトの栽培が盛んであった。オンシツコナジラミは当時すでにアメリカ合衆国東部に広く分布していた。Gahanがオンシツツヤコバチを新種として記載したのは1924年のことであった。タイプ標本はアイダホ州産であったが、その前年にはワシントン、オハイオ、ミシガン州などに生息し、多発したことが記録されている。
 一方、イギリスでオンシツツヤコバチが発見されたのは1926年のことであった。標本は大英博物館を経て、アメリカ農務省のGahanに届けられ、オンシツツヤコバチと同定された。その標本がロンドンの北隣りのハーフォードシア州チェシャントの試験場に持ちこまれたこともあり、直ちに大量生産にとりかかり、1927年からイギリス国内ばかりでなく、チャネル諸島や遠くカナダなどにまで配布されたが、1949年に合成殺虫剤に勝てず、生産は中止された。

3.オンシツツヤコバチの商品化

 施設害虫の防除に天敵を利用しようとする考えはイギリスに古くからあったが、オンシツツヤコバチの大量生産を実現させたのはチェシャント試験場のSpeyerであった。1949年に生産中止になった後は、植物園の温室に細々と残っていたため、1967年にイギリスのウェストサセックス州にある温室作物研究所でオンシツツヤコバチの大量飼育を再開するのは容易なことであった。
 合成殺虫剤が広く普及するなかで、オンシツツヤコバチの大躍進の基礎を築いたのはオランダの温室作物研究所のBravenboerとイギリスの温室作物研究所のHusseyであろう。前者は農薬と天敵に対する抵抗性の発達に気づき、生物的防除の必要性を見抜いていた。恐らく、彼を有名にしたのはチリカブリダニである。ご存知と思うが、ドイツのDosseが南米のチリから送られて来たランから見つけたハダニの天敵がチリカブリダニで、彼らは1962年に共著でナミハダニに対する有効性を報告している。しかし、当時はドイツやオランダにその捕食性のダニを生産する基盤はなく、オンシツツヤコバチで実績のあるイギリスにおいても直ちに普及しなかった。その理由があるとすれば、イギリスはオンシツツヤコバチのように国が技術を提供することをさし控えたからかも知れない。そこで、イギリスの小さな天敵を扱う会社が出現し、技術開発を行なったばかりでなく、今日の天敵会社が行なっている技術サービスを創案する会社もあった。
 オランダのコパート社を創設したKoppertがスイスのMAAG社からチリカブリダニを購入して使用したのは1967年のことで、彼は、1969年にイギリスの温室作物研究所を訪れて、Verticillium lecaniiの初期の研究者で天敵利用のシステムを確立していたHusseyに会い、天敵会社をつくることを宣言した。彼は2年目に200haまで利用面積を増すといった順調なスタートを切ったが、1971年に予想もしないオンシツコナジラミの大発生に遭遇した。農薬使用により、使用面積葉30%まで落ちこんだが、その年にオンシツツヤコバチを小規模ではあったが、生産して自信をつけ、1972年からオンシツツヤコバチの計画生産が始まった。そして、2年後の1974年にはオンシツツヤコバチの利用面積がチリカブリダニのそれを上回るようになった。トマト栽培者の創設したコパート社はいまではチリカブリダニやオンシツツヤコバチばかりでなく、多くの施設害虫の天敵を生産し、世界中に販売している。よくいわれることであるが、彼の成功はマミーを固いカードにはりつけたことであるが、実際に使用する農家の側に立つことができたことが、他のイギリスなどの天敵会社を大きく引き離したことに結びついた。カナダには今でも自家用のオンシツツヤコバチを生産して利用している農家もあるが、いまではそれも少数になった。コパート社は単なるオンシツツヤコバチの利用者ではなく、まさに販売者になり切ったところに企業としての成功があった。
 このように、この世の中に温室の普及がなければただの寄生蜂で終っているかもしれないオンシツツヤコバチはいまでは昆虫ビジネスの最も重要な商品になっている。

(山口大学農学部)


イギリスのHussey
 
オランダのBravenboer