テンサイの褐斑病、

ヨトウガの発生推移と防除(1)

神沢 克一

- アリスタ ライフサイエンス農薬ガイドNo.89/H (1998.10.1) -

 


 


 

1.はじめに

世界における砂糖の生産量は約1億tであり、その内テンサイ糖が約30%を占めている。テンサイを栽培している国は51ヵ国におよび、栽培面積は約9百万haである。砂糖の原料としては、サトウキビが紀元前より栽培されているのに対して、テンサイの歴史はわずか200年程である。テンサイ糖業はドイツで誕生したが、ナポレオンの保護施策により定着し、その後急速にヨーロッパ全土に拡がって行った。

当時、テンサイから生産された砂糖は、「ナポレオンの砂糖」と揶揄されていた。作物としての歴史は浅いが、この間の品種改良、栽培法改善などの効果は著しく、初頭3~5%の糖分が17%を超え、ha当りの砂糖収量は10tに達し、一時は砂糖生産の46%をテンサイ糖が占めたことがある。

日本においては、北海道の開拓の歴史と共にテンサイ糖業も発展してきた。特に冷害年を経るごとに栽培面積が増加し、寒冷地作物としての地位を確立してきた。現在、テンサイはバレイショ、豆類、小麦、トウモロコシなどと共に基幹作物の一つになっている。栽培面積は約7万haで、60万t前後の砂糖が生産されている。

本格的な栽培は1918年(大8)より十勝で始まり、その後途切れることなく全道に拡がって行った。テンサイはヨーロッパでも「トレーニングクロップ」と呼ばれているように、トラクターの導入および施肥、防除、農作業の機械化など畑作農業近代化の諸技術はテンサイに始まり、他の作物に普及していった。

病虫害の防除においても、1937年(昭12)に褐斑病、ヨトウガが駆除対象病害に指定され、農薬の無償配布、集団防除などが行なわれていた。この時一部の地域で畜力型車載動力噴霧機が使用され、畑作物の農薬散布の先駆けとなった。

確かに当時の記録を見ると、病虫害の発生は凄まじいものであり、「褐斑病の発生により圃場全体が枯れあがり、たばこを吸うと火事になる」、「ヨトウガの菜根をかじる音がうるさくて寝られなかった」と言った逸話がまことしやかに残っている。収量確保には、常に病虫害の被害を如何にして防ぐかがポイントであり、約80年に渡る栽培の歴史は褐斑病、ヨトウガとの戦いの歴史でもあった。病虫害の防除法が確立した今日においても対応を間違えると大きな被害を受ける状況は変わっていない。


第1図 褐斑病の発病推移(1961~1997)(無防除区における10月上旬の発病指数)

第1表 褐斑病発病指数が1単位増加するごとの減少割合(単位:%)

(注)9月15日および10月1日における発病指数が1単位増加
したときの各項目の減少割合を示す。

項目 褐斑病発病指数
9月15日 10月1日
根重 3.7 3.5
根中糖分 2.8 2.6
糖量 6.1 5.6
茎葉重 11.3 10.0

2.褐斑病について

(1)褐斑病の発生推移

褐斑病は、テンサイの栽培がヨーロッパ各地で始まって50年にもならない、1872年イタリーで命名された古くからの病害であり、テンサイを栽培しているほとんどの国で主要な病害となっている。

日本では、1889年(明23)に発病の報告があり、当時テンサイが作付されていた伊達、紋別、札幌地域で発生し、被害を与えていた。明治の製糖工場はわずか数年で閉鎖され、その後十勝に工場が建設され今日まで続いているが、当初よりヨトウガと共に褐斑病の大きな被害を受けていた。

褐斑病の発生を記録でたどると、今では考えられないような発病の状況が記されている。大正から昭和初期にかけては発生が年に2回との記載がある。

1回目は7月上旬より始まり、8月上中旬にかけて急増し、下旬には全葉が枯れ落ちる。2回目は再生した葉が9月中旬より感染し、収穫時に再び枯れる。

1935年(昭10)頃になると年2回の発生はなくなったが、激発年では、初発は同じく7月上旬で、病勢は9月に入って急増し下旬に全葉が枯れ落ち、収穫時には新葉が再生していると記載されている。1965年頃からは、初発が7月下旬以降となり、発生の最盛期が9月中下旬で、収穫時に全葉が枯れるようなことはほとんど見られなくなった。

第1図に1961年以降の十勝における防除試験の無散布区の発生推移を示したが、過去38年間で1961、1975、1978年の3年のみが指数5の激発年であった。特に近年の発生は軽微で、無防除でもほとんど枯葉が生じることがなく、年によっては葉に病斑がわずかに散在する程度の発病に止まっている。

このように褐斑病の発病は年代ごとに軽減されてきているが、これらは褐斑病を防ぐためになされた多くの対策と防除努力の結果である。昭和30年代までの対策は耐病性品種の普及とボルドー合剤による防除の推進であった。耐病性品種については、当時としては画期的な「本育192号」の育成、普及である。

昭和30年代には、野生種の血を導入した耐病性に優れた「導入2号」が栽培され、農薬散布が不要とまで言われていた。しかし、本品種も1960、1961年の高温年には発病し、減収を招いた。

農薬に関しては、昭和30年代初めまでは主としてボルドー合剤が使用されていたが、散布器具などが未整備であり、回数も少なく十分な防除効果を上げていなかった。昭和40年代に入り、効果の高い農薬の普及、動力噴霧機の整備などが相まって、褐斑病を4回程度の定期的な散布により、ほぼ完全に抑えることが出来るようになった。

これに加え伝染源除去の徹底などが進み、防除体系が確立したことにより、褐斑病には弱いが収量の高いヨーロッパ産の品種を導入することができ、移植栽培法の普及と相まって、テンサイの単収、および生産高は著しく向上した。

 ▲ 1.褐斑病発病指数2~3(平均的な発生量)  ▲ 2.褐斑病発病指数5(新葉が再生している)

 ▲ 3.病斑上の褐斑病胞子  ▲ 4.ホクガード散布により中心部が抜け落ちた病斑


第2図 ホクガードの効果(褐斑病発病指数の推移)
(注) 定期散布区 マンゼブ剤を2週間間隔で4回散布(7月22日、8月6日、20日、9月9日)ホクガード区 発生予察に基づき3回散布。但し2回目はマンゼブ剤散布(7月29日、8月18日、9月1日)

(2)褐斑病の被害

褐斑病の発病程度は発病指数で表示されるが、この指数は葉の罹病面積を考慮して作成されたもので、指数5は全葉が枯れたもの、指数3は葉面積の1/3~半分程度が侵されているものであり、肉眼的な判断の基準としては病斑間の組織にも壊死が広がった罹病葉が数枚認められる株である。病斑が癒合せず散在しているものは、その量によって指数が1あるいは2となる。指数4は半数程度の葉が完全に枯れた株である。

これらの指数と根重、糖分などとの関係はほぼ直線的な関係にあり、指数が1単位増すことによる根重、茎葉重、根中糖分、糖量の減少割合を第1表に示した。

この数字を基に、過去10年間の平均的な収量52.7t糖分17.2%を基準として、無防除の平均発病指数2.5の場合(写真1)の被害を計算すると、糖量では1.1t/haの減収となり、標準的な買入価格の差は約11万円/haとなる。全体の被害額を推定すると約77億円(平均作付面積70,593ha)に達する。

1978年(昭53)のような収穫時に全葉枯死する場合(写真2)を想定し、指数5での糖量の減収を計算すると2.5t/ha(減少割合28%)に達し、買入価格では約26万円/haの差となる。

しかし、1978年度に実施した防除試験においては完全防除区(発病程度0)と無防除区(発病程度5)の差はこれを超えており、糖量の減少割合は46%であった。これより見ても、昭和初期の年2回発生するような激発年では糖量が50%以上減収していたと思われ、本病の防除に多くの努力が払われてきたことが理解できる。

(3)褐斑病の防除

褐斑病の主な伝染源は前年の罹病茎葉である。褐斑病菌はそれらの中で菌糸塊で越年し、5月中旬頃より分生胞子を生産し、これが飛散して感染する(一次感染)。葉面に到達した菌は、葉内に侵入し、3~4mmの円形病斑を形成し、多量の分生胞子を生産する(写真3)。分生胞子は風により飛散し、再度感染する(二次感染)。二次感染の繰り返しにより葉面の病斑が増加し、株全体が枯死する。

病斑上で生産される胞子数は罹病性品種の場合約3万個に達する。一つの胞子から一つの病斑が形成されるので、1haの圃場全体を枯死させるのに必要な胞子数は30~40億個となるが、葉面積の半分が侵されると全葉が枯れるので、15~20億個の胞子で十分である。

この数の胞子を生産するのに必要な病斑数は5~7万個で、ほぼ一株につき1個の病斑となる。小数であっても早期の病斑を完全に死滅させることが圃場の感染源を絶つ意味から防除の要となる。

連作圃場などでは、前年の罹病葉が圃場に残されているため、それが伝染源となり一次感染が長期間続き、圃場全体の発病につながる。一般の圃場では他より持ち込まれた菌糸塊、あるいは胞子によりごく少量の一次感染が生じるが、一次感染が長期間続くことはなく、これにより生じた2次感染が実際の発病の引き金となる。

そのため、一次感染、および初期二次感染を阻止すれば、全体の発生を抑えることができるので、葉面での胞子発芽阻害、菌の侵入阻止などの予防効果を有する農薬(予防剤)を20日前後の間隔で定期的に散布し、圃場全体への伝播を防いできた。

しかし、連作畑、あるいは1961、1975、1978年の様な激発年においては予防剤の4回散布では不十分であった。特に、激発年は7、8、9月の気温が高い年であり、褐斑病のライフサイクルが短く、胞子形成も頻繁に行なわれるので、20日間隔の定期散布では感染を完全に防ぐことができず、菌の侵入を許すこととなる。

また、予防剤には組織内に侵入した褐斑病菌を殺す能力がないので、いったん侵入されてしまうと病斑上で繰り返し胞子が生産されることになる。これが感染源となり、全体の発病につながっていく。このような状況にあっては侵入した菌を殺し、胞子形成を阻止できる治療効果を持つ農薬でないと褐斑病の進展を完全に止めることが難しい。

治療効果の高い農薬としては1966年にTBZがてん菜国際学会で初めて報告された。TBZは当時日本では家畜用の薬剤として販売されていたが、これを用いたところ、卓効を示した。この時期、日本でもTBZを含め多くの農薬について治療効果を中心に検索しており、1969年にはチオファネート剤が実用化された。

使用当初、防除効果が高く、完璧に褐斑病を防いでいたが、耐性菌の出現により1976年以降使用できなくなった。その後、治療効果の高い農薬の登録がなく、予防剤による防除を行なってきたが、1995年(平6)になって治療効果のあるDMI系の農薬が登録された。

新たに登録となったホクガードもDMI系の農薬の一種であり、治療効果が高く、散布後病斑が抜け落ちることを観察している(写真4)。試験圃場での散布試験の結果を第2図に示したが、少ない防除回数で褐斑病の発生を著しく軽減させ、根重、糖分に好結果をもたらしている。

(次号へ続く)

(日本甜菜製糖株式会社総合研究所)