アリスタIPM通信 古くて新しい有機リン殺虫剤、トクチオン
 
 
古くて新しい有機リン殺虫剤、トクチオン
 
下松 明雄
元 日本バイエル・アグロケム株式会社
 
 
現在、市販されている有機リン化合物には殺虫剤以外に除草剤あるいは殺菌剤などがあります。
その中で有機リン系殺虫剤の歴史は最も古く約80年前から始まります。
トクチオン(一般名:プロチオホス)は有機リン系殺虫剤の中では最後の頃に登場した日本で発明された薬剤です。トクチオンは燐を中心に非対称形に結合した化合物であり、S-プロピル基を持つことを特徴としています。(図1)
図1. トクチオン、Oはオクソン体の化学構造式
図1.トクチオン、Oはオクソン体の化学構造式

トクチオンは殺虫剤の研究ではなく、有機リン殺菌剤のイモチ病防除剤(キタジン、ヒノザンなど)の探索中に発見したもので、殺菌活性はなくなり、また殺虫活性も弱いい筈の化合物から突然殺虫活性のある化合物が見出された経緯があります。
発見は昭和44年(1969)、日本で農薬登録されたのは昭和50年です。当初から、化学構造と殺虫効力、作用性において従来の有機リン殺虫剤とはかなり異なるものと思っていました。有機リン殺虫剤の研究のパイオニアであるドイツ、バイエル社の化学者たちも新分野の殺虫剤として認めています。
実は本発見の前に、他社からS-プロピルの有機リン化合物の合成があり、特許も殺虫、殺線虫剤として2,3出願されていました。各社とも単なる新しい有機リン殺虫剤の発明と思い、薬理学的あるいは生物学的に興味のある発見とは認識しなかったようです。

従来型の有機リン殺虫剤とプロピル型の殺虫剤の主な相違点は次の通りです:
1) プロピル型殺虫剤のすべての化合物は哺乳度物に対して低毒性である。
2) プロピル型殺虫剤のすべての化合物は従来型の有機リン殺虫剤に対する抵抗性害虫に有効である。
3) プロピル型殺虫剤のすべての化合物で殺虫スペクトラムが広い(ダニ、線虫を含む広範囲の害虫に有効)。

上記に加えて、プロピル型は物理化学的に比較安定で残効性が長い特長があります。
トクチオンの開発後は世界中で研究が始まりました。しかし、生物試験(圃場試験を含める)の結果では類縁化合物間で差別化(個性?)の発見は困難です。ほかにも理由があると思いますが、他社から研究開発はされていても最後の商品化までにはいたらなかった主な理由と思っています。

動物の神経が正常に作動するには伝達物質であるアセチルコリン(ACh)とその分解酵素、アセチルコリンエステラーゼ(AChE)が関与しております。有機リン殺虫剤はこの酵素(ACh E)に結合してAChの分解を阻害し異常な神経興奮をおこさせ致死に至らせます。この酵素は蛋白質なので動物の種類により差異があります。トクチオンも酸化されたオクソン体が酵素阻害物質ですが、哺乳動物の酵素はあまり阻害しません。したがって、プロピル型のすべての化合物が低毒性になります。(図2)

図2.神経シナプスの構造と殺虫剤の阻害部位
図2.神経シナプスの構造と殺虫剤の阻害部位


生物界では、ある期間薬剤が使用され、淘汰されると、遺伝的にその薬剤に耐性の系統が出現してきます。昆虫も例外ではありません。最初の頃の薬剤抵抗性の発現は個々の有機リン殺虫剤の分解・解毒が原因でしたので、殺虫剤毎の抵抗性でした。しかし、より長期間の薬剤の使用で、薬剤に阻害されにくい酵素(変異型)を持つ抵抗性の系統の害虫が出現してきます。作用点の酵素〈AChE〉の変質による抵抗性が出現すると今まで使用していたすべての有機リン殺虫剤の効力が低下します。
トクチオンが開発された頃にはいくつかの抵抗性害虫が出現していました。タイや日本でのキャベツのコナガ、また東京湾埋立地のごみ処分場(夢の島)のイエバエなどです。現在でも殺虫剤に対する複合抵抗性の研究に最適の(図3)供試昆虫となっています。
古くて新しい有機リン殺虫剤、トクチオン

従来の有機リン殺虫剤もトクチオンも昆虫体内で酸化によりオクソン体になり酵素(ACh E)を阻害します。しかし、驚いたことにはin vitroでトクチオンのオクソン体は変異型の酵素は全く阻害しません。虫体内でオクソン体から代謝によりさらに活性化された物質がこの変異型の酵素を阻害することがわかりました。この活性化代謝物はプロピル基の酸化と思われ、哺乳動物のACh Eには影響ありません。これがプロピル型の有機リン殺虫剤の特長です。

トクチオンの発明の前に、殺ダニ効力のある化合物について検討していました。またトクチオンについては鱗翅目害虫(ヨトウ、コナガ)に特に有効な薬剤と最初は思っていましたが、その後種々な害虫に有効であることが判りました。
また殺線虫剤については他社から開発されております。現在、プロピル型有機リン剤は殺虫剤が2剤(トクチオン、プロフェノフォス)、殺線虫剤が3剤(フォスチアゼート、イミシアフォス、カズサフォス)市販されています。

トクチオンには光学異性体が2か所あることが推測されます。異性体のどちらかは効果が無いか弱く、当然殺虫効力の低下につながっていますが、圃場での防除効果は残効性で補っていると考えられます。しかし、作物残留、薬害、経済性などが許す限り、より高濃度で使用するのがこの剤の防除効果を高めるための秘訣です。今までは殺虫剤間の混用はあまり考えていませんでした。特に、他の有機リン剤との混用については今後の検討課題と思っています。

トクチオンは昆虫の解毒代謝による抵抗性の発現は起こりにくい化学構造をしています。しかし、トクチオンでも皮膚透過性の低下、分解解毒による効力低下、或いは作用点の変異による低下など、複合抵抗性の出現の可能性はあります。ただ、自然界での適者生存の法則から考えて、生き残った複合抵抗性系統が遺伝的に優性でも将来繁栄しつづける確率は低いものと推定されます。
したがって、未使用期間が長ければ殺虫効力の復活も十分考えられます。 
プロピル型の有機リン剤、トクチオンはこれからも長期にわたって薬剤のローテーションで使用される基幹殺虫剤のひとつになれると考えています。



※2016年8月5日現在の情報です。製品に関する最新情報は「製品ページ」でご確認ください。